くらしを書こう

 

 

くらしを書こう。

それが何かになるかもしれない。

 

そう思いました。

 

文章を書くのは好きなのに、それを発表することや、何かの賞やコンテストに応募することは苦手で目を背けていました。昔、とあるコンテストに応募したら採用されたことがあるのですが、自分の考えたアイデアが堂々と使われているわりにはリターン(賞品)が少なすぎるように感じて、その不信感から今でも少し躊躇してしまいます。コンテストってそういうものなんだけどな。

 

そんなリターンは気にせず。

 

くらしを書いてみたいと思います。

 

私の生活を事細かに記すのではありません。いつかのどこかの雑誌に載っていたミュージシャンのエッセイとか、フリーペーパーの片隅に書かれた著者すらわからないエッセイとか、名もなき編集後記とか。あんなふうに、ささやかで、明るい気持ちになれる文章を書きたいです。

 

どうにも、気づいたら暗いところでぶつぶつ呟きながら苦しんでしまう性質。そんな薄暗いところにいないで、まあ日向に無理矢理出ることもしないでいい、ちょっと日当たりの良い公園に出るつもりでさ。

 

 

書く。

 

それが私を明るい方へと連れていってくれたらな、と思います。

 

 

 

 

 

今日のくらし

 

・掃除をしているときとても「くらし」の実感がある

・ファンタジーの対義語は掃除かも

・小さめの掃除機がほしい

・仕事と家事をスムーズにできる体力がなによりもほしい

 

・今日は興味のない話をたくさん聞いてがんばった

・「がんばったよ!」「すごいでしょ!」というような自慢気な投稿(もちろん私もそういうことをする時がある)を見ると、頭のなかに、親に対して必死に手を伸ばすこどもの姿が浮かんで、少し悲しくなる

・わたしたちはみんな永遠にかなしいこどもなのかもしれない

 

ラッキーアイテムは5年日記

 

人々が健康すぎて、心底驚くことがあります。

私が健康ではなさすぎるのかもしれません。どちらもか。

 

 

書店に寄ったら、店頭に5年日記がありました。

そういえば何かの占いコーナーで「ラッキーアイテムは5年日記」とあった。どうしてある星座の人のラッキーアイテムが5年日記なのか、さっぱり理屈がわからないのですが、それはさておき分厚い5年日記を手に取ってみてふうんと頷く、

 

5年生きている保証があるから怖がらずに書けるのかしら。

 

 

祖母は、高齢ですが、日記を欠かさずつけているそうです。

戦争を生き抜いた逞しい人なので、エンディングノート(遺言のようなもの)なんてまだいらない、それより日々の暮らしの記録!と、欠かさずその日あったことを記録しているそうです。祖母のベッドの傍らには分厚い日記帳が何冊も積まれていて、中には私についての記述もあるらしい、怖い。そこだけ削除してほしい。

その気力と生命力を見習いたいと思います。

 

私は将来設計というものをほとんどせずにきてしまいました。というのも、常に「もうだめだ」と思っていたので(思い込みだけではなく、本当にだめそうだったことがよくあったのです)、1年後の将来も1ヶ月後の将来さえもうまく描くことができなかったのです。

学校で将来設計やキャリアについて考える時間がありました。しかし、働き詰めの自分も、結婚している自分も、子育てをしている自分も、趣味を謳歌している自分も、全く見えてきませんでした。「やりたいことがない」ということはなくむしろ書き出せば大量にあるのですが、その中で「できること」は相当限られてきます。端的にいうと生活しかできない体力です。

 

5年日記の、

「5年後のあなたはどうなっているでしょう。」

そんな感じの謳い文句がもう既につらい。「……生きてるんでしょうか?」なんて返事するのはちょっと暗いし悲しい。生きていたい。

 

持病はいくつもありますが今は何よりパニック発作が苦しいです。外出先であっても家にいる時であっても、じわじわと疲れが溜まり、突然発症する呼吸苦とめまい。救急車?頓服薬?とりあえずどこか休めるところを……と彷徨ううちに発作がおさまることもあれば、全くだめで見知らぬ空間に倒れ込むこともあります。加えて、「パニックほどではないぼんやりとした恐怖や不安」という状態もあり、これはこれで全く眠れなくなったり生活を圧迫したりして苦しい。そして薬を飲んだ時などに生じる「不安こそないが何も考えられなくなり強い眠気だけがある」という状況もあり、これはこれで人間生活を営むどころではないので苦しい。ただひたすら眠りたい。シビアな追記をすると、そんな状態では「お金に恵まれている」「人に恵まれている」ということもありません。お金を稼ぐ体力も人間関係を維持する余裕も全て奪われてしまいます。つまりじわじわと、なにもなくなっていきます。

そんな状態で将来のことを考えるのは至難の業です。目の前のことしか考えられない……。

今日を生きる。仕事をする。ごはんを食べる。そうやって私の生活を1日分回して、それに加えてちょっと夢があれば、それでもう、十分です。ハープのカタログを見ながら全てを買う妄想をしてニヤニヤしている。いつか生まれ故郷にハープミュージアムを作るのだ!なんてね。

そんな呑気で穏やかな気持ちをもって眠っても、凄まじい悪夢で夜中に目覚めたりする。物心ついた時から悪夢は習慣だからどうしようもない。ああ、少しでいいから未来を想えるコンディションがほしい。

 

いっそ現実を無視して、パワフルな将来計画を立ててみましょうか?

ガクチカ」……大学在学中に力を入れたのは、PC作業の学習(在宅ワークができるスキルが欲しかったがPC作業の疲れの方が上回ってしまい挫折)、転ばぬ先の杖…になるはずの各種手続き、民法の勉強、などという、「今後倒れたらどうするか」メインの動きでした。

でも、倒れないかもしれない!

そう思いこむのもいいかも。どちらがいいのか迷うところではあります。現実的には“自分の暮らしはこのような範囲になるだろうな”と(私の場合は)小さな枠を描いて、そこに収まるように計画立てるべきなのですが、その枠を狭めて狭めてついには何もなくなってしまいそう、弱っているとついそうなってしまうのです。ならばいっそ大きな枠を作ってみるのはどうだ?大きすぎると計画倒れになるけれども。

 

人々の生活を見ていると時々意味がわかりません、どうしてこんなに健康なのか、今この時を楽しく過ごせているのか、未来をどのように考えているのか、何もわかりません。健康だったことがない人間には一から十までわかりません。

 

 

本当は心底どうでもいい話をしたいのです。そういうタイプなので。

20代になってポケモンを初めて覚えようとしているとか、そういう話をしていたい、そういうタイプなので。初歩の初歩かもしれないけれど、ピカチュウがかわいい。そういう。

 

 

 

楽しくなくてもいいから苦しくない日々がいいのになあと思う日もあるし、

苦しいけど楽しい部分もある日々で良かったと思う日もある。捉え方による。

 

 

 

ひとまず5年日記の購入は見送り、頭の中で5年後の自分がどうなっているのか、どうなりたいのかを思い描く段階から始めようかと思います。

 

 

5年日記を書く気になったら、きっとそれは祖母の血です。

 

 

好奇心

 

 

 

花の名前を知りたくなりました。

 

あっ、これは好奇心だ!、と思いながら早めの帰路。病院に行くからです。

うーん、バスは満員。つぎのにしよう。

 

 

 

とある中学生が、ある日突然、まったくしゃべらなくなった。

 

ある日、と、まあそんなにピンポイントかどうかはわかりませんが、ある時を境に、私はしゃべらなくなりました。いえ、しゃべれなくなりました。

 

中学生は、中学生なりに、幼いなりに、考えたのでした。

『私が話していることも、それは、すでにだれかのことばだな。ある一定の枠に沿ったことしか話せない場面がたくさんある。だれかにもう、行く道を全部決められているんだ。』

陰謀論ではなくてね。

自分の意思が自分の意思ではないと思ったのでうまくしゃべれなくなりました。しゃべると何かに"加担する"こわさ(たとえば弱い立場の人に当たりが強くなったりとか、周りが言う差別的な言葉をそのままコピーしてしまったりとか、困っている人をさらに責めてしまうとか。そういうことです)。それを背負う力は、ひ弱な自分にはないと思いました。結果的に中学校では友達が殆どいなくなってしまい、「あのひとは、一言もしゃべらない。なんか読んでるか書いてるか校内を散歩してるかだ。あぶないぞ。」といわれていたとかいないとか。

 

その中学生は病院で「うつ状態ですねえ」と言われながらもなんだか納得できませんでした。悩ましい思春期なんて言い方をかえれば軽いうつだよ、と思っていたし、それならわたしは生まれながらにうつだよ、なんにも興味がないしなんにも知ろうとしないのだから、と思ってました。

 

12歳ぐらいで一度人生を諦めて知的好奇心を失いました。

早すぎる。けれど、ちょうどその頃、ここには書ききれないくらいのさまざまなことが一気に自分を呑み込んで、気がついたら心がぱりんと割れていた、もうわたしはなにもかもだめだと思った、あとは惰性で余生を過ごすだけだと。

今の歳になると「12歳ぐらいの子どもたちにそんな思いをさせないような社会がいいな」と思います。

 

ある日のバス停。

どこかのオフィス、花壇がきれいですばらしいけど、なんの花かわからない。シャッフル再生で流れてきた音楽もだれのなにかわからない。信号が赤になって車が止まる。

花。音楽。車。人。

 

それ以上考えない。

 

生き延びるために、そうやってここまで来たので、今でも物事を余りにも知らないときがあり愕然とします。ほんとうにきみは生きてたのかい、何年も、何年も?

 

何かを知ろうとしている人をあちこちで見ます。とても健康そうでいいですね。私は何かを知りたいという気持ちを失って、どこかの地点までそのままだった。徐々に取り戻して、やっとここまできました。

 

 

最近は自分に体があるんだなあ!と気付きました。

 

実体のないバーチャルの世界が生きやすくて生きやすくて。むかしからパソコンが好きです。(しかし、インターネットに自由につなげない環境だったので、インターネットのことはよくわからない。ネットワークを使わず物書きとお絵描きとタイピングゲームばかりしていた。)

一方で、体があるというのがすごく嫌でしたから、鏡も嫌いで(実体がうつるので)、握手も嫌いで、集合写真では魂を抜かれたみたいに写っていました。実感がないから、ピースサインひとつできなかった。

 

最近、お医者さんからすすめられた運動を毎日続けていて、そのおかげで自分が思考するだけの存在ではないという実感が湧きます。よく歩くのがよいらしい。それに加えて、柔軟性を高めるとか、筋力を高めるとか、栄養も体組成にかかわるとか、そういうことが最近楽しくてしかたがないです。人間が人間のからだを操縦して、そこからいろいろなものが(音楽だって)つくられるんですね。

 

 

体がある。疲れると機能が落ちる。

 

脳がある。入ってきた情報に対して、より詳しく知ろうとするかしないかを選択することができる。必要なら詳しく知ることができる。

 

当然のことなのですが、それをやっと、安心して実感できるようになりました。

 

 

やっぱりすごく人間はおもしろいです。中学生のあなたは生きていく自信がなくてホームセンターでロープを買いましたがそれから何もないまま結局うやむやになって中学校を卒業しましたね、そんなあなたでさえその人生の先で少しは、生きるのに慣れます。花を見て名前はなんだろうと考える、そんな能力が回復します。これはすごいことだよ。楽しみにしていて、あなた、そう過去の私へ。あなたがまたロープを買うことがあろうとも、きっとそのロープはあなたをこの世に繋ぎ止める方向に働くでしょう、楽しいキャンプとか、ね。そう信じています。

 

 

バスが来ました。また混んでる。けど、さっき1本見送ったから諦めて乗る。

この時間帯はこうなんだ。と、これも好奇心。

 

街のバスにはたくさんの中学生が乗っていました。中学生なんてなんにでもなれるよというまやかしを昔の私は笑いました、心の中でさめざめと泣きながら。今の中学生たちもそうかもしれない。欺瞞に倒されないように、どうかいまこのときを、健やかに過ごしてください。

 

 

 

 

 

 

安定

 

 

暮らしにオートメーションを導入。

 

といっても大したことはなく、朝のアラームが鳴り終わったらスピーカーから音楽が流れるようにしただけです。色々動いている間にそれがラジオの英語講座に切り替わり、終わったら天気予報とカレンダーに登録した今日の予定が音声で流れてくるという、それだけです。

 

それだけですが、これが便利。すごいね。

スマート家電を買えば部屋の電灯をつけたりいろんなことができるらしい。

 

昔は家電量販店の店員さんになるのが夢でした。

もうちょっと昔(幼児)だと、ロボットになるのが夢でした。

何のコンテンツだったか忘れましたが、サイボーグになりたいという夢を「男のロマン」と言っていた作品があって、ちょっと待った!と思いました。男のロマンとは限らないよ、それは、人類のロマンじゃないかな。一部の人類の。

 

機器は安定しているから好きです。自分がまるで安定していないからというのもあります。

呼びかければ一定の規則に従って応答してくれるその明快さ。

機器に向かって話しかけたくなります、ねえ見てよこの「人間の体」。全然思い通りにいかないよ。同じ時間に同じメニューのご飯を食べて同じ時間に眠っても、次の日の体調がまったく違うんだ。だめな日は一日中寝ていたいし、目の前にあるものが手に取れないほど体がだるいよ。きみほどの安定じゃなくても、もうちょっと調子を安定させたいよ。なんとかならないかなあ。

そうスピーカーに問いかけたら「すみません、よくわかりません」と言われました。

 

 

取扱説明書を読むのが好きです。

家電でもなんでもそうですが、せっかくの機能にアクセスできていないことが多い。よく読めば「こんな機能もあったんだ」となるので楽しいです。この間ボイスレコーダーの説明書を読んでいてビットレートの設定を間違えていたことに気づきました(データ容量の節約のために音質を落としてあった。もっといい音でとれた)。機器にどれだけ機能が搭載されていても設定するのは人間。使うのは人間。人間が安定していないと機器をカスタマイズすることすらままなりません。

 

人間の取扱説明書があるといいな……。

 

 

みんな違っていい緑

 

 

梅雨まっただなか、

髪の毛がきれいにまとまってうれしい!

インスタのストーリーにのせちゃお。

 

おそらくそういう情報にハートをつけました。

よかった。元気そうで。

SNSは知人友人の生存確認の場でもあります。あの子と、これ以上すごく仲が良くなることはないかもしれないけど、無関係ではない。

そんなバス停での時間。雨上がりは緑の匂いがして目にも鮮やか。

 

うれしいよね。いろんなことがうれしい。それをあなたが教えてくれたことがうれしい。

初夏はうれしい季節です。

 

 

バスを降りたところに、よく知った制服を着た女の子が楽しそうに歩いてきました。緑の単語帳も、同じものを使っていたことがありました。

よかった。元気そうで。全然知らない人ですが。

きっと母校に行ったとて、どの生徒も知らないしどの先生も知らない。自分とはもはや何の関係もない。それでも少しは気にかかるものです。

じっと見ていたわけではないんですけど、その子が手にしていた単語帳を急に閉じたので不安になる。

 

あんなに、制服を着た自分をだれかがみているというのがこわかったのに、

今、一瞬とはいえ、私が眼差す側にいなかったか!

 

 

 

インスタのストーリーは誰が見たかわかるからいい。

さっきのインスタの子は、そう言ってました。

誰が眼差したかわかるからいい、ってことでもある。その匿名の相手、正体は誰かわからないかもよ?と聞いた私は微かに「誰が誰かなんて匿名でも全部わかってるよ」なんておそろしい答えを期待していました、それくらい堂々としていたから。しかし彼女は淡々と「鍵アカやし」と答えた。そうね。知ってる人しか承認しないよね。

見てもらう人を管理できる。けど、人がどうあなたをまなざすかまでは、わからない。

みんな期待しながら、怯えながら、やっぱりそれでも見てほしい人は見てほしい。なにかを。

 

 

突然髪を染めた友人に「かわいい、似合う」と言ったらすごく嫌な顔をされてしまったことを思い出して胸が痛みました。駅のなか、旅に出るわけでもないのにみどりの窓口の前だった、そんなことまで覚えている。

私は気持ち悪かったかな、言い方が派手だったか?逆に、じめじめしていたか?、もしかして何かのハラスメントだったかなあ、と悩みましたが、あれも、たまたま、そうなってしまっただけかもよ。彼女の髪色と嫌な顔の真意は彼女にしかわからない、彼女は何も考えていなかったかもしれない。私の褒め言葉が意味するものはわたしだけが知っている、私だって何も考えていなかったかもしれない。

 

人間が人間を勝手に見て勝手な感想を述べてしまったからこういうことに。

と思ってわたしはそれから人にかわいいと言うのが怖くなってしまいました。気にしすぎてしまいました。

 

 

人を見ることに対しての感覚も、見られることに対しての感覚も、人それぞれ……。

 

 

 

どんな人にだってなれるし、どんな人であってもいい、と思ったらちょっと気が楽です。

 

いつか髪を、たとえば緑に染めて、誰かが「かわいい!」と言ってくれたら「でしょ!」と返して、ピースする?

 

そんなことだって、あるかもしれません。

 

 

 

がんばる

 

 

楽器が弾けない生活も、もうすぐ終わりを迎えそうです。うれしい。

 

弾きたいフレーズや作りたい曲の構想をスマホのメモに残しています。数えたら100件を超えていました。

 

 

楽器が弾けない状態になって、ふと、

私は物心ついた時からほぼ毎日何らかの楽器を弾いていたことに気づきました。

 

「がんばってるね!」と言われるのがなんとなくこわくて、「楽器の練習はどれくらいしているの?」と聞かれた時に「そうですねえ、できない時も多くて……週に数回……」と過少申告したことが何度もありました。

昔、近所にピアノ講師のおばあちゃんがお住まいで、その方の前で「あまり練習してませんえへへ」と言った時には、冷静に「ええっ」と言われ、冷静に「毎日練習をしなければ上達しませんよ」と言われました。その通りだと思います。私は情けなくも「プロにはなれないのでいいかなあと思います」とふざけた返事をしてしまいました。ただ、あの時のおばあちゃんの悲しそうな表情を、なぜだかはっきりと覚えています。おそらく、そのときは気づかなかったけれども、私も悲しかったのだと思います。もう将来をあきらめてしまっていたことが。

 

実はその「あまり練習してませんえへへ」は嘘だったことがわかりました。今になって。

体調やメンタルの問題があって練習メニューをこなせない日でも、ピアノに触って“遊んでいました”。遊びは練習に入らないと教わってきたので自分に厳しい目を向けてきましたが、それでも小曲を弾いたりしていたわけで、ピアノに触らない日はほとんどなかったのではないでしょうか。ハープを始めてからはハープもほぼ毎日弾きました。しかしついぞ「私は毎日楽器の練習を頑張っています」と胸を張って言えたことがありませんでした。実感がなかったので。

 

その実感とは 楽しい、のびのびしている、充実している、という感情のことなのかもしれません。

 

ピアノ教室で連弾楽譜をもらってきた時、それは「先生と」連弾する譜面でしたが、週に1度のレッスンで「先生としか」一緒に弾けないのが寂しくてたまりませんでした。ひとりっ子なのできょうだいもいないし、一緒にピアノを弾くような友達はできませんでした。自分のパートを1人で練習しながら悲しい気持ちになりました。鍵盤を叩くように無茶をして弾いたハノンの練習曲が聴覚に刺さって泣きました。

ならハープなんてもっと仲間がいないだろう、と言われそうなのですが、ハープ教室はアンサンブルの会を定期的に開催していて、しょっちゅう合奏の機会がありました。仲間がいて私は寂しくないはずでしたが、それでもまだ異常なほど遠慮がちでのびのびしているとはとても言い難く、「いい演奏やね!将来ずっとハープを続けるの?」という質問に「いえ、きっとやめていると思います。飽き性なんで」と、さっぱりと、ふざけて答えていました。

 

私が自分で自分のことを茶化してしまうのは音楽に限った話ではなくて、英語が好きだったから毎日洋楽を聴いていたのに「くわしいね」と言われたら「親が洋楽好きなだけです」と答えていたし、言葉が好きで毎日本を読むのが楽しみだったのに「よく知ってるね」と言われたら「背伸びしているだけです」と答えていました。いつも、できる限り人より劣っていようとしました。

 

私はおそらく健康的な自尊感情を持つことができていませんでした。批判に怯えて、褒め言葉にも怯えていました。ピアノのレッスンひとつとっても、叱られるのも褒められるのも怖かったので、いつのまにか教室から足が遠のいていました。ピアノの演奏にも、ピアノに関係のない問題にも(例えば言われたことをすぐに忘れるだとか扉を閉めてくださいと何度言われても閉められないとか突然“今日は音楽鑑賞をしたいです”と言い出すだとか)、なんらかの評価がつきまとうことが怖かったのです。なにぶん真面目な態度で会話に滞りもない『ふつうに見える』子どもでしたので、いっそうその態度を不思議がられました。どうしてそんなに怯えているのか。人並みにできる部分と、人よりできる部分と、何度やってもどうしても身につかない部分があって、それらの偏りが激しかったので私は珍しがられました。いろんなことが人と違いました。自尊感情のバランスがそのたびにおかしくなりました。

 

体調を崩しやすい人生であるためか、体調を崩してしまった人やメンタルが参ってしまった人の書いた文章(本やブログなど)を何かと読むことがあります。そうするとよく「がんばらなくてもいい」「無理しないで」という内容が書かれていることがあります。

がんばらないってなんだろう。

私は何かをどれだけ頑張っても全く満足できず、ずっと自分は“何も頑張っていない“と思っていて、あるとき活動がキャパシティを超えてしまい、みごとにダウンしました。「がんばらなくてもいいよ」とどれだけ言われても全く理解ができなかったのです。

がんばるってなんだろう。言葉の意味を調べよう。

私にとって辞書は重要なツールです。言葉を知りたい。言葉を知って多くの人々と感覚を共有したい。

 

頑張る(がんばる)の意味・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書

[動ラ五(四)]《「が(我)には(張)る」の音変化、また「眼張る」の意からとも。「頑張る」は当て字》
1 困難にめげないで我慢してやり抜く。「一致団結して―・る」
2 自分の考え・意志をどこまでも通そうとする。我 (が) を張る。「―・って自説を譲らない」
3 ある場所を占めて動かないでいる。「入り口に警備員が―・っているので入れない」

 

なるほどなあ。私は、困難を困難だと気づくことが難しくて、めげずに耐えた、我慢したという実感もほとんどない。これまで、おそらく私の人生にはいくつも困難があって(誰にだってそれぞれある珍しいものではないありふれた困難)、それにめげないで我慢した経験がある、のでしょうが、それがわからなかったので、「頑張れ」と言われても首をかしげるしかできませんでした。

私にとって音楽は、やや大袈裟な表現にはなりますが、生きるために必要なことです。たとえ楽器がなくても歌ったりリズムを取ったりします。外で歌い出しそうになった時にはつま先で床をトントンと叩いたりガムを噛んだりして音やリズムを逃がします。生きるために演奏が必要なので、困難だと思ったこともないし、我慢したこともありません。むしろ演奏を禁じられる方が大きな困難……。それで、頑張っているという実感が全くなかったのです。

そうか、すでに頑張っていたんだ。

 

もう「わたしはがんばっていない」と思って卑屈になることはないんだな。

自分のしたことを、ありのまま、話せるようになるといいです。

 

 

すべての行動の理由をひとつひとつ考える、この思考を、「考えすぎだよ」と諌められることが多いです。

そんな人に、あなたが考えすぎなくてもなんとなく生きてこれたのはあなたが標準的だからですよ、と答えたくなります。もちろんそれはいいことなんだけど。私は「なんとなく」行動したら大失敗してしまうので(一例として交通事故に遭ったことがあります)、考えすぎにならざるを得ません。

 

考えることも大事ですが、

もっと、日頃から、わけのわからない ただ 思いました! をすらりと言えるようになりたい。それがどれだけぐにゃぐにゃでも。

言語で表現するのはまだ修行中ですが、音楽なら、わりと楽に、それが表現できます。

 

 

 

演奏は私の空白(自分では認識できていない時間)を埋めている美しい私自身です。

 

 

今後もいっさい飽きることなく楽器を弾き続けることでしょう。音楽が好きです。

 

 

 

鳴らす

 

 

息を吐いて、吸って、

 

 

音を出す時に、必ずそうします。

 

自分から発する声も、楽器の演奏も、同じです。呼吸が整っていない時には声を出せないのと同じように、楽器を演奏する時も、呼吸が整っていないとうまくできません。息を止めたまま弾くことはできないのです。深呼吸をして体を緩めてから演奏すると楽に演奏ができます。

 

 

 

キーボードのキーが重い。

一言一言、言葉を打ち込むのに、こんなにも体力がいる。

 

 

 

訳あって最近楽器を弾けていません。つらい。(最近動画を出しましたが、あれはけっこう前の録音です。)

自由に楽器を弾きたい!

 


楽器を弾いたり体を動かす時間を挟まないと、集中力が続きません。

“どうしても集中が続かないときには体を動かして気分転換!でもそれができない時は音楽を聴いたり読書をしたりしてみよう“という、「outputができないならinputをすればいいじゃない」的内容の雑誌をぱらぱらとめくり、首をかしげる。それはなんだか腑に落ちないなあ。何か発散したい状態で、情報を取り込んだら、余計に混乱するような気がするなあ……うーん。

 


もしかして「楽器を弾く」と「音楽を聴く」が同じ分類の人も多いのかな?、と思い、驚いています。

同じ“音楽“ではあるけど全然違う。ような気がする。だってinputとoutputだもの。

聴くことでしか得られないこともあり、弾くことでしか得られないこともあります。よね。

 


output

私が一番楽にできるアウトプットは「音を出す」ことです。ピアノの鍵盤をおさえる、ハープの弦をはじく、声を出す。

「文章」と「音」の違いは、 間  ……伝えたいことの隙間にある、一見無駄で必要のない空間だと思います。

文章はそれらを拒む、音はそれらを許す。私にはそう思えて、音のほうが楽だと感じます。

 

「音」をそのまま文章に起こすとするなら。

 

 

…………、(窓が風に揺れる)(トリがなく)、エ、っと(表通りを車が通る)、わたしがいちばん楽にできる……outプット……わ、「音」、?を、出 (無声音)。音を出すことです。それは例えば……ええ、っと、(すこしはやく、)ピアノの鍵盤をおさえるだとかハープの弦をはじくだとか、声を出すだとか。、そういうことです。文章と、音の違いは……m...ma。(家の近くでだれか世間話をしている、)(え、それでなんだっけ?)……伝えたいことのすき間にある、一見……むだで、ひつよーのない、くーかん。だと思います。、(ラーんファーん(うちのインターホンのピンポンの音程))、あ、宅配の人や宅配「はい!少々お待ちください、」(インターホン切って)「すみません」ばた、パタパタパタ……>>>

 

 

こういう形の情報を録音して伝えたいです。最後に関係ない音が入ってますね。今宅配の荷物を受け取って戻ってきました。

音の、曖昧な情報が多いところが好きなのです。

環境が整っていなくて、楽器を鳴らして録音することも声を出して録音することも難しい、これはつくる人間としてはそれなりにストレスがたまります。わたしはこういう「音の表現」が本当に好きなんだなと思いました。昼は生活をしていてそれどころではなく、夜はマナーとして音を出してはいけない ので、ひとに“素直な“音を聞いてもらう機会が極端に減っています(つまり普段は、すごく丁寧に気遣って音を発して、なんとか人間らしさを保って生活しているんですけど、それは“必要とされる“音であって、どこか無理をして出している音です)。音楽や一人語りにあらわれる、肩肘張らない音、ふとした隙間の音を、人に聞いてもらう……かどうかはともかくとして、せめて自分で発して自分で聞ける時間を作りたいです。

 

どうしよう。そろそろハープを担いでふらっと旅に出るかもしれない。静かな場所を求めてさすらうのだ……

 

 

文章はどこででも書けます。騒がしい場所でも録音できない場所でも。紙とペンがあれば、それか、スマホがあれば。「音を出してはいけない」場所や場面より「ものを書いてはいけない」場所や場面の方が少ない、ですよね、?あくまで体感ではあるけれど、圧倒的に手軽。

 

文章は間を削ぎ落としてつくります。だから読める文章になっていくのであり、その作業もまた楽しいのですが。ですが。

文章を書いている時でも、やはりわたしが一番気になるところは音です。キーボードを打つ音を聴く。画面に映る文字の音を頭の中で聴く。ローマ字入力は文字を音にして分解して打ち込むので、タイピングをしていると、言葉がよりスローな音になって1音1音重みを持って入ってくる感じがします。w-a-t-a-sh-i-w-a。

 

音を楽しめないと生きていく楽しみがなくなっちゃうなあ。

 

 

 

ひとりでくつろぐ優しい時間を作るために、日々戦わなければならないことがあります。

「戦う」なんて気取っている、のではなく、ごくありふれた戦いです。日常はやわらかな反発の繰り返しで良くなっていく。

 

粛々と

 それは誰に強いられるでもなく自分で決めてせねばならんことで、

 もし自分ではなにも決められへん状況になった時は その原因(人だったり病だったりするね)と、粘り強く対話をする。

生活。


 できなくて弱って諦めてしまうことも、それはもうたくさんあります。

 それはしゃあない。ゆっくりねむろう。

 

 

 

アウトプット。

ほんとうはこの内容を、ゆったり、声でお話ししたかったのですが、文章になりました。

散らばってる。ね。

 

今は文章を書いています。音を出せる環境になったらブログの更新を止めると思います。いつになるかしら。

 

 

 

 

 

追記

音を言葉にする時に思い浮かんだのが

川上未映子 氏の「私はゴッホにゆうたりたい」という文章です。

私はゴッホにゆうたりたい 川上未映子

これは大阪弁ですから私が普段話す京都の言葉とはちょっと違うニュアンスなのですが、関西弁のリズム、次々と浮かんで話す感覚をよく表した句読点の使い方、「いう」を「ゆう」で起こしたところなど、面白いところがたくさんある文章です。音に近い文章、と思う。他にもたくさん音みたいな文章やなと思うものがあるから、また、書きます。きっと書きます。