「みんなやめようよ」ChatGPT書き直しver.
最近はAIの進化が目覚ましいですね。
私のぐちゃぐちゃな文章をどう直してもらえるのか、試してみました。
以下は、私の書いたエッセイ「みんなやめようよ」を、「論理的に正しく」「間違いのない表現で」「構成に気を配って」書き直してもらったバージョンです。
原文はこちら。読み比べてみるのも面白いかも。
原文よりよほど素敵になっているかもしれません。それではどうぞ。
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「暴力描写が苦手な理由」
私は暴力表現を受け入れることができません。好きではなく、許容もできず、理解も困難です。その理由を一言で表すならば、「暴力表現を楽しめるのは、ある程度の健康と幸福が担保されている人だけである」と考えるからです。
中高生の頃、実家のリビングで両親が映画を観ていることがありました。私は自室から出てくるたびに「これ、人が死ぬやつ?」と尋ねていました。答えはほとんど「うん」でした。映画の内容は、暴力的で残酷で、多くの人物が命を落とすものでした。ジャンルとしてはサスペンスやアクション、スリラーに分類されるものです。
両親は穏やかな人間性を持っており、家庭の仲も良好でした。しかし、映画に関しては明確に趣味が異なっており、私はその時間だけは彼らと距離を取り、自室に戻ることを選んでいました。その結果、読書や勉強に時間を費やすことになり、それは私にとっては良い影響だったと感じています。
昨今の音楽チャートにも類似の傾向を感じます。歌詞の内容や音楽そのもの、さらには一部アーティストの精神状態まで含めて、非常に不安定で混乱したものが目立ちます。そうした作品群に親しみを感じてしまう自分に驚くこともあります。
これは、インターネットに初めて触れたとき「実家のようだ」と感じた自分の感覚と通じるものがあるのかもしれません。暴力や抑うつ、冷笑、絶望感が日常の風景として存在しており、それらを娯楽やユーモアとして消化する姿勢にどこか懐かしさを覚えます。
とはいえ、私は「人の心を悪い方向へと導くような表現」を肯定しません。それが社会に強く求められているとしても、私は個人として望まないし、支持もしません。健康と平和が最も大切です。
ただし、すべての暴力描写を拒絶しているわけではありません。たとえば、ボカロ楽曲「六兆年と一夜物語」には強く惹かれました。これは、暴力を受けた人間による復讐の物語です。私は「理由のある暴力」には一定の理解を示すことができます。さらに、先日観た湊かなえ原作の映画『告白』も、血の描写が多くありながら、復讐を主題としたために受容することができました。
要するに、私が耐えがたいと感じるのは「理由のない暴力」なのです。そして、それに抵抗を感じる自分を育てたのも、かつて苦手だった両親の映画体験であったのかもしれません。「環境が人をつくる」とは、まさにこのようなことを指すのでしょう。
ある夜、外から子どもの叫び声が聞こえてきました。眠れなくなり、気分転換にテレビをつけると「事故物件」をテーマにした番組が放送されていました。翌日、昼のニュースでは爆撃の報道が流れていました。
私はこう思いました。
「みんな、やめようよ。」
けれど、それが実現する未来は、いまだ見えないのです。
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いかがでしたでしょうか。
新聞のコラムのような読みやすい主張に仕上がりました。素晴らしいです。
普段、文章を書くときはAIを使っていませんが、
このようにして遊んでみるのもまた楽しいものですね。
みんなやめようよ

暴力表現を見るのがまったくだめでした。
好きでもないし、許容もできないし、理解もできませんでした。
理由を簡単にまとめると「みなさんは健康で幸せだから暴力描写を見ることができるんだよ」と思っていました。本当に。
両親が話題にあげていた映画の予告編を見てみたら、登場人物が
「暴力が俺を愛してくる」
と言っていた思い出。あかんよ。
中高生のころ、休日になると実家のリビングで両親が映画を見ていました。自室から出てきた私はまずこう尋ねていました、
「これ人が死ぬやつ?」
答えは大抵「うん」でした。
大抵、ボロボロで、グチャグチャで、人がめちゃくちゃ死んでました。当時はなんというジャンルか知りませんでしたが、サスペンス、アクション、スリラーなどというそうです。
私はそれ以上特に聞くこともなく、大人しく自室に戻りました。
両親は穏やかな人間性で、家族の仲は良かったのですが、映画の時間だけは両親ときっぱり別行動を選んでいました。おかげでよく勉強をする子になったので感謝しています。
最近流行りの音楽チャートを聴いてみたら、主に歌詞や楽曲の健康面が、そして一部アーティストのメンタルが、ボロボロで、グチャグチャ。あかんよ。
おばちゃん心配やわ(突然現れた親切なおばちゃんの人格)。
それでもどこか懐かしさを感じるあたり、さすが、インターネットに触れ出してまず「実家みたいだ」と思った人間です。暴力、抑うつ、冷笑、絶望感、全部ひっくるめてユーモアや娯楽にしてしまうその姿勢が、実家そっくり!
しかし、だからこそ、冷静な視線を向けます。人々に届けていい曲なのかい、こどもたちに聴かせていい曲なのかい、それ。
なにかこころを悪いほうに誘導するようなものは、それが社会から強く求められているとしても、私個人は好きではありません。健康と平和がいちばんです。
ところで、私は暴力系ボカロ曲のなかで唯一「六兆年と一夜物語」をよく聴いていました。
あれは、苛烈な暴力を受けた人間の、復讐のおはなしです。
それだから好きでした。
「復讐」だけは許せる自分の底知れない闇をあらためて見つめる。
先日、湊かなえさん原作の映画「告白」を見ました。
途中、そこそこ血みどろでしたが、復讐劇だったので不思議と見ることができました。暴力描写を見るのがまったくだめだ、と先ほどは書きましたが、そういえばそんなこともない。訂正します。
理由のない暴力を見たり受けたりするのがまったくだめです。
理由のある暴力は、好きではないし許容もできませんが、理解はできます。なぜ理解できるかというと、両親が見ていた映画を少しばかり一緒に見ていたからです。
あれがあんなに嫌だったのに、今では理解しながら見ることができる。
映画「告白」になぞらえるなら、
環境が、人を作っていくと言えるのでしょうか。
昨日。
外から、小さな子どもの断末魔のような叫び声が聞こえてきました。本当に。
眠れないのできまぐれにテレビをつけたらポップなバラエティをやっていました。
テーマが「事故物件」。
なんで。なんでわざわざこんなときに。なんで、出会ってしまうの。
無理やり眠って、朝起きて、
昼のニュースで、爆撃の報道。
みんなやめようよ。
そう言ったって誰もやめないんだろうな。
その人に適合するもの
ご無沙汰してます。こちらでは。
文章を書いたり音楽を作ったり写真を撮ったり。
この社会に生まれて育ったので、ふと「それはお金になるのだろうか」と思うことはある。よくある。
正直いうと、全然ならない。音楽なんて、費やした時間と得られた対価、つまり費用対効果、コスパ、タイパ、みたいなものから考えると割が悪すぎる。たくさん投資して、たいしてリターンがない。
じゃあなんでそれらをやっているのかというと答えは単純で、「それをしていないと気が狂うから」である。私がつつがなく社会生活を送るためにはどうしたって芸術が不可欠である。私の場合は。
用事があって、ちょっと大きめのショッピングモールに遠出をした。家族づれで賑わっていて、子供がぐずるのも親御さんが怒鳴るのも「いいなあこうやって社会は続いていくんだなあ」と微笑ましくみていた。目当てのものがなぜか軒並み無くて、地方都市の無力さを思い知る。
ショッピングモールの中に一人の人がいた。
ここからは私が見た限りでの話になるが、その方は、群衆の中に紛れて、ふらふらと歩いていた。目の焦点があちこちさまよっていた。足取りはおぼつかない。異質な状態でショッピングモールの中を歩いている。酒を飲んだのか、別の何かを飲んだのか、といったことは見ただけでは判別しかねる。
空きテナントが目に入る。景気が悪いな、と思う。生活に必要だから100均が賑わっていた。私も用があって入った。ふと見るとその人が「居て」、別に居るだけだからいいのに、ひゅっとなって、視線を逸らした先に張り紙があってそれは「包丁や刃物をご入用の方は店員にお申し付けください」という注意書きだった。なんでこのタイミングでこんな注意書きを見ることになるのか。すぐ店を後にした。
エレベーターで急いで降りて、さあ帰ろうと出口付近に出ようとした時私の後ろで声がした。振り返る。どうやらさっきの、その人だった。繰り返すがその人はただ「居る」だけである。一度鋭く虚空に向かって怒声を上げたのが聞こえたのだ。その一度きりだ。それ以外はなんの迷惑もかけていない。なんなら、怒声だって、子どもたちがぐずっているのとか、親御さんが子供を怒鳴っているのと、起きた事象としては大差ない。
一瞬だが、
その人には芸術とか、いやこの際もうなんでもいいんだけど、何か、その人に適合する発露の仕方があっただろうか、と思った。
他人を勝手に推し量ることはよくない。その人はすでに何かを手にしていたけれども失ったのかもしれないし、手にできる状態ではないのかもしれないし、何もわからない。わからなくていい。ただ、周囲に緊張感を与えながら「居て」、鋭い怒声を上げたあの人のことが、「恐怖」以外の感情で自分の中に印象づいた。
それはわたしが、あるルートでは、あのようだったかもしれないこと。
そして、いつでも、誰もが、あのように「居る」ことになる可能性があるということ。
疎外はしない。だれでも居ていいのだ。
ただ、わたしはその中でただ、ちょっと社会の方と仲良くしたいなと思っていて、だから、音楽をしている。そう改めて思った。
怒りと表現
「怒り」を何らかの形にすることはとても難しい。
私がそう思うだけなのか、それとも人々は皆そうなのか。それはわからない。
米津玄師さんの最近の曲をいくつか聴いた。
「さよーならまたいつか!」
1番の
口の中はたと血が滲んで 空に唾を吐く
も、まあまあ激しい歌詞であるし、2番の
したり顔で触らないで
背中を殴りつける的外れ
人が宣う地獄の先にこそ
私は春を見る
という歌詞ははっきりと他者からの暴力とそれに対する怒りを描いたものだと思う。この曲を主題歌としているドラマ「虎に翼」も視聴しようとした。個人の感想として、主人公や女性たちの怒りが軸になっているドラマだと感じ、ある程度理解できるからこそだんだん気持ちが辛くなってきて視聴を中断した。毎日怒りのエネルギーを抱えて宥めながら暮らしている私にガソリンを注ぎ込むようなものだ。あくまでこれは私の場合なので、このドラマを楽しめる人も多くいるだろう。こちらが解釈する限り、ドラマも主題歌も「怒り」を軸にしていると思う。
さすが米津さん、怒りを美しい言葉に上手く落とし込む人だなあ、と思ったところで、米津玄師さんは「毎日」と言う曲の中でさらに直接的な言葉で怒りを表現しているのが面白いところだ。詳しくは歌詞を調べていただきたいが、全体的に怒りや諦めなど負の感情が強い内容で、曲だけ聴くのとでは印象が違って面白い。
“朝ドラ”と呼ばれるドラマのオープニングに採用された曲は大抵1番の1コーラスのみが使われる。アーティストの皆さんが、オープニングではカットされた部分に「怒り」「闇」というようなテーマを書いていることは珍しいことではなく、あいみょんさんの「愛の花」(「らんまん」主題歌)では
歪んだ雲が空を
空を濁して
私の夢は全て
全て置いてきたの
と書かれた部分がカットされているし、
星野源さんの「アイデア」(「半分、青い。」主題歌)では1番の明るい雰囲気が2番で一変して
笑顔の裏側の景色
独りで泣く声も
喉の下の叫び声も
すべては笑われる景色
生きてただ生きていて
踏まれ潰れた花のように
にこやかに中指を
と、濁流のような言葉が続く。現代のポップスの手法はこうなのかもしれないと思う。はっきりとは言わない。忍ばせて言う。そんな曲も多い。
その点ボカロは直接的な怒りや暴力と親和性の高いカルチャーだと思っている。米津さんをはじめとした先駆者がボカロ曲をそのように定義づけたのか。(「先駆者」というのも語弊があるかもしれない。ボカロ曲の歴史はさらに遡ることができるが、黎明期からそうだったのではなく、どこか途中で「怒り」がボカロ界を席巻した時期があるように思う。あくまで体感です。)それとも、もともと人工音声に人間の負の感情を乗せやすい側面があったのか。ともかくニコニコ動画を開いてランキングを見ていくと、なんとなく、アップテンポで・音像がはっきりしていて・たくさんの情報が(視覚聴覚あわせて)詰め込まれていて・「死か暴力か怒りか悲しみの影がある」、という印象を持つ。なんなら影どころかもう直接「暴力」を書いているものも多い。歌詞や映像を見ても曲を聴いても「強すぎて」飲み下せない。ぎらぎらとひかるライトと電子音の洪水。暴論だけれど、芥川賞などの新人文学賞の作品たちにも似たところを感じる。爆発であれ、静かに燃える炎であれ、強いエネルギーが作品を突き動かしている。私はこれほど激しい表現こそが人間の本能を写し取ったものなのだろうかなどと考え、わからなくなる。人間の本能について私はよくわかっていない。
人々の研鑽された表現の行き着くところと、いわゆる「売れる」、大衆に受け入れられる作品。今、それが交差する点には、負の感情、怒りと悲しみが存在するのかもしれない。
私が最近(持病の治療の過程で生じる)怒りのエネルギーをどのように扱うか困り果てていることは以前書いた通りだ。
この怒りは創作の源泉になるのではないか?と思った。それは例えるなら強風吹き荒れる街で風力発電を試みるようなものだろうか。風車を建設する……実際に怒りを力に変換するシステムを構築する、という実際的なところをすっ飛ばして、「この怒りは使えるかもしれない!」という気持ちだけが逸る。根底には、自然災害のような怒りはもうどうにもできないのだという諦めがある。
私は怒りをベースに作品作りをしていたタイプではない。生活の中で見聞きしたことを日記のように淡々と記すのが自分の創作だった。怒りをぶつけようとか、恨みを晴らそうとか、そういう気持ちが薄い。そんなに莫大なエネルギーを持っているならもうちょっとシャキッとしているはずだが、実態はエネルギー不足の虚弱である。へにょへにょ、のんびり、無理せずご自愛、というようなことがモットーです。
そのように私自身が「怒りに慣れていない」のも手伝い、私の怒り有効活用計画は凍結しそうになっている。一般人である私はうっかり間違えてしまうが、怒りを作品にまで昇華するのはとても難しいことだ。負のエネルギーを形にする前に負のエネルギーに飲み込まれてしまうことがある。
色々作ってみて気づいたが、怒りを想起するとき、私は、それがもうすでに「特定の対象への、特定の内容」として言語化された状態で生成される。それを、対象を特定できないようにもう一度分解して、一見当たり障りのない抽象的な作品に作り直す、という作業は簡単ではない。もう「誰への何の怒りか」決まっているのだから。ミクロからマクロまで種々の怒りは一つにまとめて荒々しい曲にできるものではなく、これなら対象者に言いに行ったほうが早いよなあという気持ちになる。その勇気と気力がないから創作をしようとしているのだけど。
私は同居していた祖父の考えで、生活に関する怒りは正当に主張するようにと教えられていた。すなわち、安易に暴力に訴えかけないこと、然るべき対象に然るべき方法で自己主張をすること、というような話だった。そのために政治と社会を学ぶことが大切なのだ、と。祖父は孫の私にそれを説いた後、ふと現実に戻ってきたかのように遠くを見つめ、しかしそれがなかなかできないものだ、と言い、最後に「生まれ変わったら政治家になる」とポツリと呟くのがお決まりだった。祖父が亡くなってからしばらく経つ。祖父は無事に政治家の卵に生まれ変わっているのだろうか。
私は完全に祖父のコピーとして育ったわけではない。祖父は確かに怒りをもち、それを適切に主張する人だった。その行動はときに、いいや結構な割合で徒労になることがあり、もともと体の弱い祖父をさらに弱らせていった。それを近くで見ていて、
「なんでおじいちゃんはこんなにおこってるんやろ」
と思っていた私はいかにも平成生まれの人間だと思う。正当な主張が徒労になってしまうことが多い人生だった。クラスでも、友達でも、自己主張をするたびに「あっ!面倒な人だ!」という感じで人と距離があくのを肌で感じていた。(私自身の未熟さも多分にあったと思うが、しかし10代というのはそんなものではないでしょうか……?) 次第に私も主張の方法を忘れていったが、厄介なことに根源的な感情というもの、何かに対して何かを思うこと、は消えてくれない。人は機械にはなれない。創作活動をしてみたりして密かに感情を表現し、外ではできるだけ機械的に過ごした。何も知らず、何も知ろうとせず、何にも関心のない、どこか遠くの世界の住人のように過ごした。今では反省しているがその時はそうするしかなかった。
今の世の中には目を瞑りたいくらい負の感情を載せた作品が溢れている。しかしいま、このいま、すべてのことに怒らずに悲しまずに穏やかに毎日を過ごせるか?誰一人過ごせないのではないか。過ごせるとすればそれは無視と諦念を含むのだろう。
「最近は暗い曲が多いね」という言葉には頷けない。世相が暗いのだから暗い曲が増えて当然だ。怒りを正当に主張する術を忘れさせられた世代が作る、怒りを圧縮して込めた爆弾みたいな曲、それがよく売れるのはごく自然なことなのかもしれない。ドラムは轟き、シンセは爆ぜ、アコースティックギターは泣く。その中で歌声は荒れ狂い、(または、やさしくするするとおだやかにのどごしよく、)絶望をうたう。喉に引っかかってしまうと飲み込めないから綺麗にパッケージングされている。そんな歌が発生するのもごく自然なことかもしれない。
感情を表出できる人は、する方がいいと思う。言葉でもいい。歌でもいい。
私は私のできる範囲で怒りを抱えていく。それを主張することも、うまく形にすることも、できないかもしれないが、無かったことにはしたくない。
リフレイン。
「暴力に訴えかけないこと、然るべき対象に然るべき方法で自己主張をすること」。
それがたとえ夢物語だとしても、火を消さないように。
心地よさ
ご無沙汰してます。
近況。
極力穏やかな生活をしながら、ちょっとずつ薬を変えたり調整したりしています。
生活はなかなかに難しい。
詳細は書けませんが現在の状況は「かなりむずかしい」。「かなり悪い」、「かなりつらい」ではないだけ良いです。攻略のむずかしいゲームをやっているようなものなのかな、と、RPGをろくに遊んだこともないのに思っています。先日爽やかな初夏だったもので、おやつにアイスクリームを食べてしまい、案の定顔にできものができて化膿して皮膚科に行く羽目になりました。そのような弱点を持っています。たった1つのアイスでそんななるかね?と思いますが、なるんですね。すぐにゲームオーバーです。昔誰かに言われた「残機が少ないね」という言葉が頭をよぎります。残機って結局なんだっけ?あとで調べておきます。
薬の副作用で苛立ちが強め。つらいものです。
何を見てもキエーッと漫画のように怒りが湧いてきます(実際にそうなってみると、漫画でしばしば見かける頭から蒸気が噴き出ているような表現は適切なんだなと実感しました。本当にああいう感じなのです)。おろおろと困りながら、薬と生活でなんとか凌いでいます。私はもともと比較的穏やかな性格、であるはずなのですが、一方で喜怒哀楽の「怒」と「哀」が強い人間でもあり、コントロール、コントロール……とリリーフピッチャーのように心の中で唱えています。投げるところを間違えたくないです。
初めはイライラし続ける自分に嫌気がさしていましたが、最近は「これも私の一部やなあ」と受け入れて、そんな自分をどうケアしようか、と考えています。居心地のよさを感じることが大事だそうです。おすすめは自然を見ること。画面越しではなく実際に見るのがより効くような気がします。花と緑と空がこれほどまでに心を癒すものだとは思っておらず、最近はちょっと遠出をして畑を見に行ったり(見知らぬ所有者の畑なので見てすぐに帰ります)、公園に居れるだけ居たり(大きな水筒を持って木陰のベンチにずっと座っている)、緑のある街角の同じところをぐるぐる何周かしたりしています。一言で言うと不審者ですが、治療のためには気にしていられません。もちろん人に迷惑のかからない範囲で動いています。
喜怒哀楽の「喜」と「楽」をもっと大事にしたい。
刺激的な楽しさや喜びだけではなく、ほっと一息……という状態を生活の中に増やしていきたいです。縁側で湯呑みに入った温かいお茶を飲むような心地。陽だまりで柔らかな犬の毛並みを撫でているような心地。山の上の花火を遠く遠くに見つめながらぬるい夏の風に吹かれているような心地。脳内に反芻するのはつらい記憶でも苦しい現実でもなく、眠れない夜を越えてひどく疲れて少しだけ眠れた後の朝に聞くような、すがすがしい鳥のさえずり、そうであってほしいです。
見てください。多肉植物の葉挿しが成功しました。かわいいです。

植物も自然も好き。
ああ音楽やりたいな!本も読みたいなあ!
くらしを書こう
くらしを書こう。
それが何かになるかもしれない。
そう思いました。
文章を書くのは好きなのに、それを発表することや、何かの賞やコンテストに応募することは苦手で目を背けていました。昔、とあるコンテストに応募したら採用されたことがあるのですが、自分の考えたアイデアが堂々と使われているわりにはリターン(賞品)が少なすぎるように感じて、その不信感から今でも少し躊躇してしまいます。コンテストってそういうものなんだけどな。
そんなリターンは気にせず。
くらしを書いてみたいと思います。
私の生活を事細かに記すのではありません。いつかのどこかの雑誌に載っていたミュージシャンのエッセイとか、フリーペーパーの片隅に書かれた著者すらわからないエッセイとか、名もなき編集後記とか。あんなふうに、ささやかで、明るい気持ちになれる文章を書きたいです。
どうにも、気づいたら暗いところでぶつぶつ呟きながら苦しんでしまう性質。そんな薄暗いところにいないで、まあ日向に無理矢理出ることもしないでいい、ちょっと日当たりの良い公園に出るつもりでさ。
書く。
それが私を明るい方へと連れていってくれたらな、と思います。
今日のくらし
・掃除をしているときとても「くらし」の実感がある
・ファンタジーの対義語は掃除かも
・小さめの掃除機がほしい
・仕事と家事をスムーズにできる体力がなによりもほしい
・今日は興味のない話をたくさん聞いてがんばった
・「がんばったよ!」「すごいでしょ!」というような自慢気な投稿(もちろん私もそういうことをする時がある)を見ると、頭のなかに、親に対して必死に手を伸ばすこどもの姿が浮かんで、少し悲しくなる
・わたしたちはみんな永遠にかなしいこどもなのかもしれない
ラッキーアイテムは5年日記
人々が健康すぎて、心底驚くことがあります。
私が健康ではなさすぎるのかもしれません。どちらもか。
書店に寄ったら、店頭に5年日記がありました。
そういえば何かの占いコーナーで「ラッキーアイテムは5年日記」とあった。どうしてある星座の人のラッキーアイテムが5年日記なのか、さっぱり理屈がわからないのですが、それはさておき分厚い5年日記を手に取ってみてふうんと頷く、
5年生きている保証があるから怖がらずに書けるのかしら。
祖母は、高齢ですが、日記を欠かさずつけているそうです。
戦争を生き抜いた逞しい人なので、エンディングノート(遺言のようなもの)なんてまだいらない、それより日々の暮らしの記録!と、欠かさずその日あったことを記録しているそうです。祖母のベッドの傍らには分厚い日記帳が何冊も積まれていて、中には私についての記述もあるらしい、怖い。そこだけ削除してほしい。
その気力と生命力を見習いたいと思います。
私は将来設計というものをほとんどせずにきてしまいました。というのも、常に「もうだめだ」と思っていたので(思い込みだけではなく、本当にだめそうだったことがよくあったのです)、1年後の将来も1ヶ月後の将来さえもうまく描くことができなかったのです。
学校で将来設計やキャリアについて考える時間がありました。しかし、働き詰めの自分も、結婚している自分も、子育てをしている自分も、趣味を謳歌している自分も、全く見えてきませんでした。「やりたいことがない」ということはなくむしろ書き出せば大量にあるのですが、その中で「できること」は相当限られてきます。端的にいうと生活しかできない体力です。
5年日記の、
「5年後のあなたはどうなっているでしょう。」
そんな感じの謳い文句がもう既につらい。「……生きてるんでしょうか?」なんて返事するのはちょっと暗いし悲しい。生きていたい。
持病はいくつもありますが今は何よりパニック発作が苦しいです。外出先であっても家にいる時であっても、じわじわと疲れが溜まり、突然発症する呼吸苦とめまい。救急車?頓服薬?とりあえずどこか休めるところを……と彷徨ううちに発作がおさまることもあれば、全くだめで見知らぬ空間に倒れ込むこともあります。加えて、「パニックほどではないぼんやりとした恐怖や不安」という状態もあり、これはこれで全く眠れなくなったり生活を圧迫したりして苦しい。そして薬を飲んだ時などに生じる「不安こそないが何も考えられなくなり強い眠気だけがある」という状況もあり、これはこれで人間生活を営むどころではないので苦しい。ただひたすら眠りたい。シビアな追記をすると、そんな状態では「お金に恵まれている」「人に恵まれている」ということもありません。お金を稼ぐ体力も人間関係を維持する余裕も全て奪われてしまいます。つまりじわじわと、なにもなくなっていきます。
そんな状態で将来のことを考えるのは至難の業です。目の前のことしか考えられない……。
今日を生きる。仕事をする。ごはんを食べる。そうやって私の生活を1日分回して、それに加えてちょっと夢があれば、それでもう、十分です。ハープのカタログを見ながら全てを買う妄想をしてニヤニヤしている。いつか生まれ故郷にハープミュージアムを作るのだ!なんてね。
そんな呑気で穏やかな気持ちをもって眠っても、凄まじい悪夢で夜中に目覚めたりする。物心ついた時から悪夢は習慣だからどうしようもない。ああ、少しでいいから未来を想えるコンディションがほしい。
いっそ現実を無視して、パワフルな将来計画を立ててみましょうか?
「ガクチカ」……大学在学中に力を入れたのは、PC作業の学習(在宅ワークができるスキルが欲しかったがPC作業の疲れの方が上回ってしまい挫折)、転ばぬ先の杖…になるはずの各種手続き、民法の勉強、などという、「今後倒れたらどうするか」メインの動きでした。
でも、倒れないかもしれない!
そう思いこむのもいいかも。どちらがいいのか迷うところではあります。現実的には“自分の暮らしはこのような範囲になるだろうな”と(私の場合は)小さな枠を描いて、そこに収まるように計画立てるべきなのですが、その枠を狭めて狭めてついには何もなくなってしまいそう、弱っているとついそうなってしまうのです。ならばいっそ大きな枠を作ってみるのはどうだ?大きすぎると計画倒れになるけれども。
人々の生活を見ていると時々意味がわかりません、どうしてこんなに健康なのか、今この時を楽しく過ごせているのか、未来をどのように考えているのか、何もわかりません。健康だったことがない人間には一から十までわかりません。
本当は心底どうでもいい話をしたいのです。そういうタイプなので。
20代になってポケモンを初めて覚えようとしているとか、そういう話をしていたい、そういうタイプなので。初歩の初歩かもしれないけれど、ピカチュウがかわいい。そういう。
楽しくなくてもいいから苦しくない日々がいいのになあと思う日もあるし、
苦しいけど楽しい部分もある日々で良かったと思う日もある。捉え方による。
ひとまず5年日記の購入は見送り、頭の中で5年後の自分がどうなっているのか、どうなりたいのかを思い描く段階から始めようかと思います。
5年日記を書く気になったら、きっとそれは祖母の血です。