不燃

 

 

書くのは、

帰路、

スマホ

       が多い。

 

ある人が食事、ある人がアルコール、ある人が仲間との時間、ある人が恋人との時間、言い換えれば現実逃避、酩酊、没入、幸福感。

それができない、制限をかけられている、いろんな理由によって。

だから私は書く。

 

声がうまく出せない時がある。

そんな時は音を聴く。

音が好きなのに(それは音楽や声のふるえ)、音すら聴けない時があり、その時には書く。

画面上のテキストは音ではないから聴覚に突き刺さらない。

 

視覚に光が突き刺さったら、もうできることはないので、あきらめて眠る。

 

燃えないごみの日はいつだろう。

 

何にも分別できない、不自由な創造性が、頭の中をめぐる。

 

 

 

つかれた

 

足の甲を打った。

ふとした拍子にぶつけ、あざになってしまった。靴下を履く時すら痛い。

 

少し前のことですが、家の中で気絶していたらしくて、気づいたら夜でした。

「うわあ大変だ!」「大丈夫ですか!」という反応を得たくて大袈裟に話しているのではなく、これを“よくあることだなあ“と思ってしまう生活の異常性を書き記したかっただけです。病院にはちゃんとかかっていますのでご心配なく。

悲しいですが、昔からよくあります。いきなり気を失うのではなくて、眠気によるものです。眠くて眠くて、よくあるツイートのように「ねむい」と一言書く間もなく、眠ってしまう。なんらか、原因があるらしいんですが、よくわかっていません。繰り返しますが病院にはちゃんとかかっています。MRIとか脳の検査も受けました。医学はさっぱりわからない私でもナルコレプシーとか睡眠障害といった単語が思い浮かびますが、色々、考えてもらって、やっぱりわからないそうです。

 

どうやら虚弱ということらしい。それだけはわかる。

診察室にて。

 

「ーー何も変わったことはしていませんよ。朝は早起きして白湯を飲みます。朝ごはんは、ごはんにお味噌汁に野菜にタンパク質。毎日そこそこの歩数歩きますし、ストレッチやヨガもしますし、お菓子は食べませんし、晩御飯はスープにして胃の負担を減らしています。……何か良くない部分があるでしょうか。」

『ああ、なるほど。頑張りすぎかもしれませんね。』

 

お医者さんは それはわるいものの仕業です!お祓いを! と言い出さないのでありがたいです。

 ちなみに、私は信仰がないわけではなく、お彼岸ごとのお墓参りは欠かしませんし、機会があって神社でお祓いをしてもらったこともあります。これでまだ“何かに憑かれたんだ!“などと言われたらそのときはもうなんか、そうなのかーと思います。

で、

 

「……頑張りすぎ、ですかね」

『ストレスは体に良くないですからね。きちんとした生活をしなければというプレッシャーが無理になることだってある。ゆったりした気持ちで……』

「でも先生……。朝ごはんを食べないと午前中動けませんし、お菓子やジャンクフードを食べるとすぐアレルギー症状が悪化しますし、運動しないと気分がふさいで、晩御飯をスープにしないと胃が痛いんですよ。したいからしているのではなくて、そうするしかなかったんです。」

『……検査の結果は何も問題がないので……うーん、そうですね、まあ養生していただいて……』

 

 

ある けど 説明できないもの、というのは、しばしば存在します。私の場合は病がそうです。

私はどうやら元々が「がんばれない」タイプらしく、普通の生活をするだけでそれが「がんばる」に該当してしまい、ちょくちょく倒れるのではないか。無理に説明するならこうなる。そうなると「頑張らないと生活できないが、生活すると頑張りすぎになる」ということになってしまいます。哲学かな。

人間はそれでも生きていられるのだから不思議です。

 

こうやって文章を書くという、自分が自分の意思でやっている自由な活動も、また全部、「無茶」とか「無理」という言葉にまとめられてしまう。

みなさんは健康ですか。健康というのは何ものにも変え難い財産だと思います。健康だからどうにかなるというものでもないかもしれないけれど、私は健康体が夢です。健康な人たちはできるだけ自由に生きてほしいとか願っちゃう。そして社会をよくしていってほしい。とかね。

 

神経質なのも元々で、それもなりたくてなったわけではないのです。神経質であるしかない。

なぜなら少し気を緩めたそのとき、人がまずぶつからないようなところに足をぶつけて、足の甲にあざができたりするからです。あーあ。

 

湿布を貼って、早めに寝ます。一日一日を乗り切っていくしかないのかも。

 

 

 

 

 

あのこもきっと洗濯する

 

 

女の子を見ていて、いいなあ、と曇りなく思うことが多いのですが、特に「謎が多い」ところが好きです、好きでした。

 

残念ながら、女性としての暮らしが、女の子の謎めいた魅力をどんどん解き明かしてしまいます。柔らかなニットを着てセミロングの髪をなびかせて街をゆく女性を、みて、ちいさい頃の私なら「いいなあ」とただニコニコしていられたのですが、今の私はああいう風になるためのレシピをある程度知ってしまっている。「陶器のような肌は」ファンデーションを塗って、「意志の強い目元は」アイライナーを引く、ヘアカラーの匂いも、イヤリングが雑貨屋の棚に揃って並んでいる状態も、量販店にふんわりと折りたたまれているカシミヤの入ったセーターも、つまり女の子が身につけるものの「元の形」を知ってしまっている。自分が買うし身につけるからです。

カステラの作り方を知らない時に見た「ぐりとぐら」のカステラが夢のようだったのと、似ています。レシピを知ってしまって、焼いてみるけど、あの頃の夢はどうしても現実と混ざってぼやけてしまう。それは私にとって悲しいことです。

 

知っていて、なお、その「なぞ」とか「ゆめ」の部分を保っている、保とうとする、そんなけなげなひとが好き。

私は例えば二次元のキャラクターにたいして優しい愛をもちます。それは、あの、ちいさい頃のニコニコしていた私の気持ちなのかもしれません。

 

知り合いにそういう“女の子”の部分を取り扱うのがとても得意な子がいて、彼女はすごいなあ、ずっとかわいい女の子のままだなあ、と感動していたら、その子が、ものすごくうらまれてしまったと言っていたそうです。なんで?どうして? どうやらずっとかわいい女の子であることが恨みを買ったらしい。なんて気の毒な。女の子は、変わっていっても何か言われ、変わらなくても何か言われるの、やだな。

 

 

このあいだお店で美しいデザインの洋服を買おうとして、生活に毒された私は、タグの洗濯取り扱い表示を見ました。綿100%、30℃以下の水温で手洗い。頭の中には「洗濯してシワシワになった服」の姿が浮かびました。綿と麻はシワになりやすい。あとは洗濯機で洗えないのも痛い。モデルさんは美しく華麗に着こなしてはったなあ。この世に洗濯なんて無いかのように。

 

迷って、買いました。誰だって生活をしますし、誰だって美しく服を着たい。

 

夢と現実の間で、あのこもきっと洗濯する。

 

 

橋を渡って船が来る

 

 

 

 

 

いくらなんでも暑すぎる

 

 

そう思った朝でした。

日陰もなんにもないバス停に立ち、今日たまたま、なのでしょうけど、バス停に誰もいなかったのでとても不安になりました。普段はだいたい同じような面々がバスを待っているというのに。お顔も何もちゃんと覚えていなくてしかし会釈はするような人々が今日は誰もいない。なぜ。

やってくるバスの姿が初夏の朝に遠くゆらめいて、「船だ」と思いました。船に見えました。空が通りの向こうまで突き抜けるように青くて、海のように見えたからです。今日はあの船に乗って航海しましょう。

 

架空の都市計画を考えることがあります。ブラタモリも好きです。

面白いので、ゲーム感覚でGoogleマップを永遠に見ています。何してるの?

 

ランドスケープ、Landscape、という言葉を見つけました。直訳すると「風景」、その言葉をこえて「人為的にデザインされた風景」という意味合いを持っているのだと思います。都市や公園や広場など屋外における計画的な空間デザイン。屋外には自然があります(これは山や川があるということに限らず、すべての場所が自然なんだろうな、多分、)。自然と調和するデザインが大事、らしいです。

 

ランドスケープのことはまた何かで読むとして、そこから派生した「サウンドスケープ」Soundscape という語に、しばしば思いを馳せます。

 

〈音の景観〉〈音風景〉と訳し,音楽,言語,騒音,自然音,のさまざまな音を聴覚によって把捉する景観をいう。

カナダの作曲家マリー・シェーファー(R.Murray Schafar)が1960年代後半に提起した概念で,ランドスケープ(風景)からの造語。視覚に頼りがちな近代の知覚への批判が込められているが,究極的には嗅覚・味覚・触覚をも含めた五官が活発に働くことを目ざしており,この概念はその目標への里程標といえる。 

(百科事典マイペディア「サウンドスケープ」より引用)

 

専門の先生のお話 (青山学院大学のサイト)

サウンドスケープから都市の実態を探ろう! - 青山学院大学 | AGUリサーチ

 

自分が好きで通ってきたものは、

音楽(音)、心理学、都市デザイン だと思っていて(哲学もそうかなあ……)

その全てが重なるところにサウンドスケープがあるような気がして、興味が尽きません。

 

最近は臨床心理学の分野でマインドフルネス(雑に説明すると瞑想みたいなもの)が多く取り入れられていますね。一部の心理的問題に効果が認められた、エビデンスのある心理療法。マインドフルネスの要素の一つに、何かと頭の中で考えを巡らせてしまうのを一度止めて、「五感に集中する」というものがあります。……確かそうだった。(専攻ではあったものの大学院生でも研究者でもなんでもないので保険をかける。信じないでください。)

 

都市で暮らす以上、「五感に集中する」と、何かしら都市の風景が見えるし、何かしら都市の音が聞こえてきます。中でも特に『たまたま聞こえてくる音』、それに近いものを作ってみたいという気持ちがずっとあります。

 

たまに、生活を憂う暗い曲が(例を挙げるなら辛いとか苦しいとか死にたいとかね)、キャッチーなメロディを伴って、永遠に頭の中で鳴り続けるような『中毒性』を持つ曲に仕上がって、私たちの手元に届きます。うっかりそれを聞いてしまったら大変。ぐるぐるぐるぐる。現実がつらいのに、脳の中までつらくなってしまって、しかも止めたくても止められない、ちょっと不謹慎かもしれないけど私はこういう曲を聴く自傷行為と呼んでいる。嫌いなのではなく、悲しいです。それが流行る世の中であることなどが……

 

私は「消える」音楽を作りたいです。

都市の音は消えます。今朝どんな音がしていたか、昨晩どんな音が聞こえていたか、はっきりとは覚えていなくて、薄ぼんやりとしています。それだから私たちは毎日穏やかに暮らしていけます。もしキャッチーなループ音楽が生活を支配していたらどうでしょうか、私はどこかで確実に限界を迎えていることでしょう。もし朝の街の自然なざわめきが全部スーパーマーケットの「呼び込みくん」だったら……考えるだけでおそろしい。

 

すっと溶けて消えていく、覚えられない、突き刺さらない、

私のこともあなたのことも変えない、言い換えれば個人に介入しない、

そんな感じの音楽……環境音楽とかアンビエントとかそういうジャンルになると思うんですが、それらを作りたいなと夢見ています。

 

それが私にとっては安らぎです。もしかすると誰か他の人にとっても安らぎになるかもしれない。

 

 

さて、

よく知られていることですが、我がまちのバスはとにかく予定通り来ません。観光の人が多いからなあ。

大幅な遅れでようやくバスが来ました。渡りに船、いえ我慢の限界。バス待ちの時間だけでこんなに文章を書いてしまった。

時間に相当余裕を持って家を出ているので、十分間に合いますが、それにしてもちょっと。

 

街のざわめきとバスのモーター音に紛れて車内に響くアナウンス。デザインされた空間。

はじめから計画されたアナウンス。

 

「お待たせしました、…………」

 

いつもそうですよね……?という苛立ちで文章をしめようとしていてよくないですね。暑さのせいです。

 

 

 

 

拠り所のない会話

 

 

今日は葵祭

本当は5月15日、昨日、それが雨で順延になって今日、華やかに行われた、らしい。

何かとお祭りやイベントがある場所で生きる市民。

観光の人出、かなり戻ってますね。体感。

 

いぬが熱いアスファルトの上を健気に歩く、そこに日傘の影が重なる、ロリータファッションの人と和装の人を立て続けに見かけて自由な服装はいいなあと思い、宅急便の自転車(がよくあるのだ、)が通り過ぎた後ろを静かに走っていった自転車の前のカゴに「志津屋」のパンの袋が入っているのをみて、ああ、カルネ!と思う街角だった。今日は暑かった。

 

先日、大阪市内に行く用事があった。大阪は都会やなぁ、と素朴に思う。京都に引きこもっていると、ビルを見上げて首が痛くなることはあまりない。都市があふれているからすごい。どうだろう、東京とか、そのほかもっと都会のところから来て、京都、ここは新鮮なのでしょうか。そういうふうに新鮮に故郷を見ることはできない、故郷だから。

 

 

「思い出を語らない こと でしょうか。」

 

むかし、日々の楽な過ごし方を聞いたら、そう教えてもらったことがある。それもそうだなと思ってずっと、心に留め置いている。

 

これ自体がもう思い出を語る行為だなあ。せっかく教えてもらったのに。

 

思い出を、語らない。『僕の後ろに道は出来る』、けどそれを振り返らないということ。

 

いつもそうなんだけれど、しゃべるせいで、後悔が多い。『子供の頃から損ばかりしている』。

根っから、そういう人間だ。話によれば幼少期にはすでに……あ、思い出を語りそうになったので、やめた。

『雄弁は銀、沈黙は金』というくらいだ。みんなほんとうに静かでおとなしくて、すばらしい。嫌味じゃないよ。

私はおとなしくて人見知りなのも上手に喋れないのも事実で、それなのに何か、せきたてられるように書いたり喋ったりする、理由をつけようとする、何かと『引用』を挟もうとする、から、しれっとした冷たい目で見られることがしばしば。あああ。

 

私はこれを見ました。

私はこう思いました。

 (関連する事柄)なぜなら私は幼少期……以下省略

 

こんなふうにひろがりかけた会話を、止めると、すごく省エネで過ごせるらしいと聞いています。

「他人はあなた個人の話なんて興味ないからね」という言葉に「いいえ!私はあなた個人の話に興味があります!」と口走りそうになるのを堪え、それは私が人間を愛し過ぎているからであって、そうではない人も多いのだ、と言い聞かせて静かにしている。

 

拠り所のない会話でいい、らしい。

 

なんの根拠もなくただその場をふわふわと浮遊する会話を、日々繰り返して、気持ちを楽にする、

 

それはひどく不安です、けど、必要なことでもあり、

 

 

…………。

 

 

理由がなくていい、曖昧でいい、誰にもわからなくていい暗号のような、言葉にする前の、そのエネルギーをそのままに、ただ、

 

 

 

いぬ かわいい

 

 

 

これだ!

unique

 

 

頭が良い人に対するコンプレックス……というより、「頭がいい」「かしこい」「優秀」ということに対する こだわり と呼べるようなものが、ずっと頭の中にこびりついている。

 


何か、強迫的な考えだなあと思う。ぼんやりと平凡でおろかな私が、それでもできる範囲で美しく、すっきりと、聡明に、ふるまわなければならないのだ、と、思ってしまう。基本的に世の中では「かしこくあろうとすること」に対してはあまり批判が集まらない。私が何度この苦しい感覚を人に伝えても『それは向上心があっていいことだよ』と言われて会話が終わってしまった。

 

 

 

 

ふだん

何度も改行をして、やっと、

話す、

 


これはわざとではなくて、むしろ私の自然な姿だ。

ぽつ、ぽつ、と、

言葉がなくて話せないのではなく、大量の言葉の海から何を選び取ればいいのかわからなくて、混乱しながら話している。ずっとそうだ。非言語の表現を選ぶと、途端に思いが溢れ出す、とめどなく続く。私の内側に潜って行く時、私の言葉は増える。

 


小さい頃から、自由に話せるようになりたかった。学ぶ経験を増やせば話せるようになると思い、学んでいくと、もともとの頭がいい人や学びの経験を多く持つ人が輝いて見えて、気づけばまた、それらに固執している。

 

 

 

 


この執念の理由を考えてみる。

 


ずっと、わたしは特殊である という事実があり、そしてそういう意識があった。

「特殊」と表現したが、これは場合によって「芸術家」とか「宇宙人」とか「へんなひと」とか色々に表される(ぜんぶ言われたことあるな、人生で)。一番しっくりくる言葉は“unique“だった。ラテン語の“unus”が由来の接頭辞“uni”は「ひとつの」という意味で、それゆえ“unique“には「ただひとつの」という意味合いを感じそれがいいなと思った。そうとしか表現できない場面がたまにある。良いか悪いか、まともか変か、そういう議論の前に、とある地球人がuniqueな特性を有する、事実はそれだけである。

本当に私がそういう人間なのかはわからない。時と場合によって変わると思う。私は置かれた環境でたまたま標準ではなかった、たまたま特殊だった、というだけなのかもしれない。

 


「アストリッドとラファエル」というドラマを最近見ている。

アストリッドとラファエル 文書係の事件録 - NHK

フランスのミステリードラマで、主人公のひとり、アストリッドは自閉症である。しかしずば抜けた犯罪学の知識と能力を生かして、時に自身の特性に苦しみながらも、難事件の解決に協力する。アストリッドが作中で映画「レインマン」になぞらえていじめられる回想シーンがある。「レインマン」に出てくる主人公兄弟の兄レイモンドは自閉症サヴァン症候群、すなわち特性由来の特異な才能を持っている。アストリッドもそれに近いタイプのため、天賦の才があるものの人の輪には溶け込めず、揶揄されるというわけだ。

 


「なにかが極端にできないひとはなにかが極端にできる」、というのは、あくまでドラマの中のイメージだと理解している。そっちの方がドラマ映えするからね。けれどもこれは案外世間にもうっすら浸透している、いや、そう信じたい人たちがいる。

 


私はいくつかの病気を持っている。そのひとつに、とある先天性の内部疾患があるが、それは簡単にいうと「なくていいところに管がある」というものだ。人間の付属パーツが余分にあると思ってもらえればいい。虚弱さに泣いていた幼少期、周囲は私を励まそうとして、神話のように特殊性のプラス面を説いた。

 


あなたは特別な人間。人にないものを持っている。

 


これは、悪い意味でも、良い意味でも使える言葉だ。

例えばレイモンドやアストリッドのように「自閉症の人が天才だ」というのはあくまで事例に過ぎなくて、天才的な自閉症児もいるし、そうでない、マイナス面をプラス面で補うことができない「平凡な」自閉症児もいる。病気もそう。病人が持つ天才的な力みたいなもの、神秘性、そんなのがあるとして、「人にないものを持っている」という言葉が特別な才能を表す比喩となる人もいれば、単に病態の説明……ただ、管がある、という意味にしかならない人もいる。

親の気持ちになってみると少しわかる。目の前の子供には生まれつきマイナス面しかないのだと、わかっていても辛くて認めたくない親や周囲の人が、私に「あなたは特別だ、優秀だ」と吹き込み、私の生存を意味あるものにしようとした。

 


私だって、マイナスだらけの日々で、たまにはその神話にすがりたい。

その気持ちが「優秀さ」への信奉になって、あらわれる。

 

 

 

わたしはもしかすると天才かもしれない、……

 

 

 

授業中ずっと眠かったあの頃。

さすがに高校生にもなると自分が天才ではないことには気づいていた。そんなあの頃、何かとマイナス面に苦しめられる日々の中で、「わたしは天才じゃあないが、天才でなければやってられないや」とおもった。それくらいの能力があれば埋め合わせができる。いまのわたしではおもったことなんにもできない。人よりもずっとたくさん眠るだけ。ああ天才として生きてみたいなあと、視界がぼやける夏の世界史の教室をおもいだす。

 


小学校でみんなの人気者だったあのこ、中学校の授業で誰よりも早く課題を終えていたあの人、高校でマニアックな話を尽きることなく語っていたあの人、大学で将来の夢を語っていた真面目なあのこ、みーんな今、学びたいことを学んでいるらしいと知った。学歴がどうという話はあまりしたくなくて、それよりも勉強したいことを勉強したい大学で(大学院で)学べていることが、良いなあと思った、彼ら彼女らは昔から天才で今も天才だったな。私は彼ら彼女らと楽しく話していたこともあったのにそうなることはできなかった。わたしの「めずらしさ」とはつまりマイナスの意味でしかなかったのだ、わたしがただのひとであることを思い知って、自分のデスクの前で泣く。

 

 

 

それでよいのに。

 


プラスもマイナスもないひとがほとんどで、

マイナスだけがあるひとも、たくさんいるのだが、

それをまだゆるせないわたしは、さびしい。

 


マイナスを認められないから、まだ、何かで補填しようとして、かしこくなりたがる。

 


それよりも、一度は消えてしまった、”unique”の魔法をもう一度信じてみたい。

ただひとりのわたしは、それだけでおもしろいはずなのだ。

 

 

 

 

おいしく食べよう

 

父方のおばあちゃんの家から玉ねぎが届きました。

新鮮だから生で食べるのがいいんですって。うれしいね。

 

フォーマルな場所ではきちんと祖母というが、心の中では呼ぶ、おばあちゃん。おじいちゃんは故人です。

 

西日本のとある山奥からの荷物を受け取るとなつかしい土の匂いがしました。

収穫してすぐの、玉ねぎと、ねぎと、お米が入っていました。おばあちゃん特製のお赤飯も入っていました。うれしいね。

 

遡ること××年前、幼いわたしはおばあちゃんの割烹着を着て、おじいちゃんの麦わら帽をかぶって、畑を通り抜けて、山の中に入りました。土をふみしめると枯れ葉がざくざくという、その土地固有の匂いがする、里山の匂いなのでしょう。急勾配を少し登ったところに木を組み合わせた小屋のような塊があり、よくよく見るとキノコが生えている。椎茸です。街のスーパーでお行儀よく並んでいる小ぶりの椎茸を見ると、あの、原木から自由に生えてきている手のひらみたいなグニャグニャの椎茸を思い出します。野菜もキノコも本来の姿はとても自由なのだ。

山は美しく豊かで、そして厳しい。わたしが足をすべらせて転んでも、おじいちゃんもおばあちゃんも過剰な心配をせず、ただ黙って手を差し伸べてくれました。そうやって自然の中で生きてきた人たちです。静かに時間が流れていきました。

戻ってきて玄関で長靴をぬいでいるとき、靴箱の上には一度ぬれて乾いたシワシワの日めくりカレンダーがあり(おそらくぬれた手でめくったのでしょう)、その横に「農業12ヶ月」、確かそのようなタイトルの色褪せたポスターが貼ってありました。農作物の害を月毎に解説したポスターで、わたしはまだあまり漢字が読めない頃でしたがひらがなは読めました、それで印象に残っているのが「うどんこ病」、うどんこびょう。植物の葉っぱが菌によってうどん粉をまぶしたように白くなってしまうことで、写真付きでその状態と注意点が書かれているのをわたしはじっと見つめ、「うどんこ……?」と新しい用語の出現に興味津々でした。珍しい言葉ではなくてあの“うどん“のことだよ。

 

届いた野菜は採れたてで土がついていて、処理をしようと台所に運んで一つ手に取ると、玉ねぎが埋まっていただろうその土がぱらぱらとシンクにこぼれ、これが届くということはあの風景が今も失われずにあるのだなと、まだ玉ねぎを切ってもいないのにほろりと涙がこぼれました。なんて。

 

土地の恵みはおいしい。楽しみに生きています。

 

そうそう母方の親戚から毎年梨が届くのです。梨の名産地。

こないだの地震が心配、やや離れているとはいえ、大丈夫かしら。北陸にお住まいの方はご無事でしたか。親戚が北陸三県に散らばっているのでいつも気にかけております。偶然ながら北陸はわたしが愛するハープとも繋がりがある。唯一の国産ハープメーカーはなんと福井県にあるのだ!これを知った時嬉しかったなあ。いつか特急サンダーバードでまた行きます。必ず行きます。流行り病がもっと落ち着いたら。

 

北海道のお土産としてとうもろこし茶をいただいた。とうもろこしの匂いがして、香ばしくておいしい。

職場で飲んだ黒豆茶がおいしかったのでまた飲みたい。

お茶ばっかり飲んでる。アルコールとカフェインが苦手なので、バーとかカフェとか全部だめで、家で大人しく水や薄いお茶を飲みます。

 

ごはんとお茶は合う。