頭が良い人に対するコンプレックス……というより、「頭がいい」「かしこい」「優秀」ということに対する こだわり と呼べるようなものが、ずっと頭の中にこびりついている。
何か、強迫的な考えだなあと思う。ぼんやりと平凡でおろかな私が、それでもできる範囲で美しく、すっきりと、聡明に、ふるまわなければならないのだ、と、思ってしまう。基本的に世の中では「かしこくあろうとすること」に対してはあまり批判が集まらない。私が何度この苦しい感覚を人に伝えても『それは向上心があっていいことだよ』と言われて会話が終わってしまった。
ふだん
何度も改行をして、やっと、
話す、
これはわざとではなくて、むしろ私の自然な姿だ。
ぽつ、ぽつ、と、
言葉がなくて話せないのではなく、大量の言葉の海から何を選び取ればいいのかわからなくて、混乱しながら話している。ずっとそうだ。非言語の表現を選ぶと、途端に思いが溢れ出す、とめどなく続く。私の内側に潜って行く時、私の言葉は増える。
小さい頃から、自由に話せるようになりたかった。学ぶ経験を増やせば話せるようになると思い、学んでいくと、もともとの頭がいい人や学びの経験を多く持つ人が輝いて見えて、気づけばまた、それらに固執している。
この執念の理由を考えてみる。
ずっと、わたしは特殊である という事実があり、そしてそういう意識があった。
「特殊」と表現したが、これは場合によって「芸術家」とか「宇宙人」とか「へんなひと」とか色々に表される(ぜんぶ言われたことあるな、人生で)。一番しっくりくる言葉は“unique“だった。ラテン語の“unus”が由来の接頭辞“uni”は「ひとつの」という意味で、それゆえ“unique“には「ただひとつの」という意味合いを感じそれがいいなと思った。そうとしか表現できない場面がたまにある。良いか悪いか、まともか変か、そういう議論の前に、とある地球人がuniqueな特性を有する、事実はそれだけである。
本当に私がそういう人間なのかはわからない。時と場合によって変わると思う。私は置かれた環境でたまたま標準ではなかった、たまたま特殊だった、というだけなのかもしれない。
「アストリッドとラファエル」というドラマを最近見ている。
アストリッドとラファエル 文書係の事件録 - NHK
フランスのミステリードラマで、主人公のひとり、アストリッドは自閉症である。しかしずば抜けた犯罪学の知識と能力を生かして、時に自身の特性に苦しみながらも、難事件の解決に協力する。アストリッドが作中で映画「レインマン」になぞらえていじめられる回想シーンがある。「レインマン」に出てくる主人公兄弟の兄レイモンドは自閉症でサヴァン症候群、すなわち特性由来の特異な才能を持っている。アストリッドもそれに近いタイプのため、天賦の才があるものの人の輪には溶け込めず、揶揄されるというわけだ。
「なにかが極端にできないひとはなにかが極端にできる」、というのは、あくまでドラマの中のイメージだと理解している。そっちの方がドラマ映えするからね。けれどもこれは案外世間にもうっすら浸透している、いや、そう信じたい人たちがいる。
私はいくつかの病気を持っている。そのひとつに、とある先天性の内部疾患があるが、それは簡単にいうと「なくていいところに管がある」というものだ。人間の付属パーツが余分にあると思ってもらえればいい。虚弱さに泣いていた幼少期、周囲は私を励まそうとして、神話のように特殊性のプラス面を説いた。
あなたは特別な人間。人にないものを持っている。
これは、悪い意味でも、良い意味でも使える言葉だ。
例えばレイモンドやアストリッドのように「自閉症の人が天才だ」というのはあくまで事例に過ぎなくて、天才的な自閉症児もいるし、そうでない、マイナス面をプラス面で補うことができない「平凡な」自閉症児もいる。病気もそう。病人が持つ天才的な力みたいなもの、神秘性、そんなのがあるとして、「人にないものを持っている」という言葉が特別な才能を表す比喩となる人もいれば、単に病態の説明……ただ、管がある、という意味にしかならない人もいる。
親の気持ちになってみると少しわかる。目の前の子供には生まれつきマイナス面しかないのだと、わかっていても辛くて認めたくない親や周囲の人が、私に「あなたは特別だ、優秀だ」と吹き込み、私の生存を意味あるものにしようとした。
私だって、マイナスだらけの日々で、たまにはその神話にすがりたい。
その気持ちが「優秀さ」への信奉になって、あらわれる。
わたしはもしかすると天才かもしれない、……
授業中ずっと眠かったあの頃。
さすがに高校生にもなると自分が天才ではないことには気づいていた。そんなあの頃、何かとマイナス面に苦しめられる日々の中で、「わたしは天才じゃあないが、天才でなければやってられないや」とおもった。それくらいの能力があれば埋め合わせができる。いまのわたしではおもったことなんにもできない。人よりもずっとたくさん眠るだけ。ああ天才として生きてみたいなあと、視界がぼやける夏の世界史の教室をおもいだす。
小学校でみんなの人気者だったあのこ、中学校の授業で誰よりも早く課題を終えていたあの人、高校でマニアックな話を尽きることなく語っていたあの人、大学で将来の夢を語っていた真面目なあのこ、みーんな今、学びたいことを学んでいるらしいと知った。学歴がどうという話はあまりしたくなくて、それよりも勉強したいことを勉強したい大学で(大学院で)学べていることが、良いなあと思った、彼ら彼女らは昔から天才で今も天才だったな。私は彼ら彼女らと楽しく話していたこともあったのにそうなることはできなかった。わたしの「めずらしさ」とはつまりマイナスの意味でしかなかったのだ、わたしがただのひとであることを思い知って、自分のデスクの前で泣く。
それでよいのに。
プラスもマイナスもないひとがほとんどで、
マイナスだけがあるひとも、たくさんいるのだが、
それをまだゆるせないわたしは、さびしい。
マイナスを認められないから、まだ、何かで補填しようとして、かしこくなりたがる。
それよりも、一度は消えてしまった、”unique”の魔法をもう一度信じてみたい。
ただひとりのわたしは、それだけでおもしろいはずなのだ。