鳴らす

 

 

息を吐いて、吸って、

 

 

音を出す時に、必ずそうします。

 

自分から発する声も、楽器の演奏も、同じです。呼吸が整っていない時には声を出せないのと同じように、楽器を演奏する時も、呼吸が整っていないとうまくできません。息を止めたまま弾くことはできないのです。深呼吸をして体を緩めてから演奏すると楽に演奏ができます。

 

 

 

キーボードのキーが重い。

一言一言、言葉を打ち込むのに、こんなにも体力がいる。

 

 

 

訳あって最近楽器を弾けていません。つらい。(最近動画を出しましたが、あれはけっこう前の録音です。)

自由に楽器を弾きたい!

 


楽器を弾いたり体を動かす時間を挟まないと、集中力が続きません。

“どうしても集中が続かないときには体を動かして気分転換!でもそれができない時は音楽を聴いたり読書をしたりしてみよう“という、「outputができないならinputをすればいいじゃない」的内容の雑誌をぱらぱらとめくり、首をかしげる。それはなんだか腑に落ちないなあ。何か発散したい状態で、情報を取り込んだら、余計に混乱するような気がするなあ……うーん。

 


もしかして「楽器を弾く」と「音楽を聴く」が同じ分類の人も多いのかな?、と思い、驚いています。

同じ“音楽“ではあるけど全然違う。ような気がする。だってinputとoutputだもの。

聴くことでしか得られないこともあり、弾くことでしか得られないこともあります。よね。

 


output

私が一番楽にできるアウトプットは「音を出す」ことです。ピアノの鍵盤をおさえる、ハープの弦をはじく、声を出す。

「文章」と「音」の違いは、 間  ……伝えたいことの隙間にある、一見無駄で必要のない空間だと思います。

文章はそれらを拒む、音はそれらを許す。私にはそう思えて、音のほうが楽だと感じます。

 

「音」をそのまま文章に起こすとするなら。

 

 

…………、(窓が風に揺れる)(トリがなく)、エ、っと(表通りを車が通る)、わたしがいちばん楽にできる……outプット……わ、「音」、?を、出 (無声音)。音を出すことです。それは例えば……ええ、っと、(すこしはやく、)ピアノの鍵盤をおさえるだとかハープの弦をはじくだとか、声を出すだとか。、そういうことです。文章と、音の違いは……m...ma。(家の近くでだれか世間話をしている、)(え、それでなんだっけ?)……伝えたいことのすき間にある、一見……むだで、ひつよーのない、くーかん。だと思います。、(ラーんファーん(うちのインターホンのピンポンの音程))、あ、宅配の人や宅配「はい!少々お待ちください、」(インターホン切って)「すみません」ばた、パタパタパタ……>>>

 

 

こういう形の情報を録音して伝えたいです。最後に関係ない音が入ってますね。今宅配の荷物を受け取って戻ってきました。

音の、曖昧な情報が多いところが好きなのです。

環境が整っていなくて、楽器を鳴らして録音することも声を出して録音することも難しい、これはつくる人間としてはそれなりにストレスがたまります。わたしはこういう「音の表現」が本当に好きなんだなと思いました。昼は生活をしていてそれどころではなく、夜はマナーとして音を出してはいけない ので、ひとに“素直な“音を聞いてもらう機会が極端に減っています(つまり普段は、すごく丁寧に気遣って音を発して、なんとか人間らしさを保って生活しているんですけど、それは“必要とされる“音であって、どこか無理をして出している音です)。音楽や一人語りにあらわれる、肩肘張らない音、ふとした隙間の音を、人に聞いてもらう……かどうかはともかくとして、せめて自分で発して自分で聞ける時間を作りたいです。

 

どうしよう。そろそろハープを担いでふらっと旅に出るかもしれない。静かな場所を求めてさすらうのだ……

 

 

文章はどこででも書けます。騒がしい場所でも録音できない場所でも。紙とペンがあれば、それか、スマホがあれば。「音を出してはいけない」場所や場面より「ものを書いてはいけない」場所や場面の方が少ない、ですよね、?あくまで体感ではあるけれど、圧倒的に手軽。

 

文章は間を削ぎ落としてつくります。だから読める文章になっていくのであり、その作業もまた楽しいのですが。ですが。

文章を書いている時でも、やはりわたしが一番気になるところは音です。キーボードを打つ音を聴く。画面に映る文字の音を頭の中で聴く。ローマ字入力は文字を音にして分解して打ち込むので、タイピングをしていると、言葉がよりスローな音になって1音1音重みを持って入ってくる感じがします。w-a-t-a-sh-i-w-a。

 

音を楽しめないと生きていく楽しみがなくなっちゃうなあ。

 

 

 

ひとりでくつろぐ優しい時間を作るために、日々戦わなければならないことがあります。

「戦う」なんて気取っている、のではなく、ごくありふれた戦いです。日常はやわらかな反発の繰り返しで良くなっていく。

 

粛々と

 それは誰に強いられるでもなく自分で決めてせねばならんことで、

 もし自分ではなにも決められへん状況になった時は その原因(人だったり病だったりするね)と、粘り強く対話をする。

生活。


 できなくて弱って諦めてしまうことも、それはもうたくさんあります。

 それはしゃあない。ゆっくりねむろう。

 

 

 

アウトプット。

ほんとうはこの内容を、ゆったり、声でお話ししたかったのですが、文章になりました。

散らばってる。ね。

 

今は文章を書いています。音を出せる環境になったらブログの更新を止めると思います。いつになるかしら。

 

 

 

 

 

追記

音を言葉にする時に思い浮かんだのが

川上未映子 氏の「私はゴッホにゆうたりたい」という文章です。

私はゴッホにゆうたりたい 川上未映子

これは大阪弁ですから私が普段話す京都の言葉とはちょっと違うニュアンスなのですが、関西弁のリズム、次々と浮かんで話す感覚をよく表した句読点の使い方、「いう」を「ゆう」で起こしたところなど、面白いところがたくさんある文章です。音に近い文章、と思う。他にもたくさん音みたいな文章やなと思うものがあるから、また、書きます。きっと書きます。