がんばる

 

 

楽器が弾けない生活も、もうすぐ終わりを迎えそうです。うれしい。

 

弾きたいフレーズや作りたい曲の構想をスマホのメモに残しています。数えたら100件を超えていました。

 

 

楽器が弾けない状態になって、ふと、

私は物心ついた時からほぼ毎日何らかの楽器を弾いていたことに気づきました。

 

「がんばってるね!」と言われるのがなんとなくこわくて、「楽器の練習はどれくらいしているの?」と聞かれた時に「そうですねえ、できない時も多くて……週に数回……」と過少申告したことが何度もありました。

昔、近所にピアノ講師のおばあちゃんがお住まいで、その方の前で「あまり練習してませんえへへ」と言った時には、冷静に「ええっ」と言われ、冷静に「毎日練習をしなければ上達しませんよ」と言われました。その通りだと思います。私は情けなくも「プロにはなれないのでいいかなあと思います」とふざけた返事をしてしまいました。ただ、あの時のおばあちゃんの悲しそうな表情を、なぜだかはっきりと覚えています。おそらく、そのときは気づかなかったけれども、私も悲しかったのだと思います。もう将来をあきらめてしまっていたことが。

 

実はその「あまり練習してませんえへへ」は嘘だったことがわかりました。今になって。

体調やメンタルの問題があって練習メニューをこなせない日でも、ピアノに触って“遊んでいました”。遊びは練習に入らないと教わってきたので自分に厳しい目を向けてきましたが、それでも小曲を弾いたりしていたわけで、ピアノに触らない日はほとんどなかったのではないでしょうか。ハープを始めてからはハープもほぼ毎日弾きました。しかしついぞ「私は毎日楽器の練習を頑張っています」と胸を張って言えたことがありませんでした。実感がなかったので。

 

その実感とは 楽しい、のびのびしている、充実している、という感情のことなのかもしれません。

 

ピアノ教室で連弾楽譜をもらってきた時、それは「先生と」連弾する譜面でしたが、週に1度のレッスンで「先生としか」一緒に弾けないのが寂しくてたまりませんでした。ひとりっ子なのできょうだいもいないし、一緒にピアノを弾くような友達はできませんでした。自分のパートを1人で練習しながら悲しい気持ちになりました。鍵盤を叩くように無茶をして弾いたハノンの練習曲が聴覚に刺さって泣きました。

ならハープなんてもっと仲間がいないだろう、と言われそうなのですが、ハープ教室はアンサンブルの会を定期的に開催していて、しょっちゅう合奏の機会がありました。仲間がいて私は寂しくないはずでしたが、それでもまだ異常なほど遠慮がちでのびのびしているとはとても言い難く、「いい演奏やね!将来ずっとハープを続けるの?」という質問に「いえ、きっとやめていると思います。飽き性なんで」と、さっぱりと、ふざけて答えていました。

 

私が自分で自分のことを茶化してしまうのは音楽に限った話ではなくて、英語が好きだったから毎日洋楽を聴いていたのに「くわしいね」と言われたら「親が洋楽好きなだけです」と答えていたし、言葉が好きで毎日本を読むのが楽しみだったのに「よく知ってるね」と言われたら「背伸びしているだけです」と答えていました。いつも、できる限り人より劣っていようとしました。

 

私はおそらく健康的な自尊感情を持つことができていませんでした。批判に怯えて、褒め言葉にも怯えていました。ピアノのレッスンひとつとっても、叱られるのも褒められるのも怖かったので、いつのまにか教室から足が遠のいていました。ピアノの演奏にも、ピアノに関係のない問題にも(例えば言われたことをすぐに忘れるだとか扉を閉めてくださいと何度言われても閉められないとか突然“今日は音楽鑑賞をしたいです”と言い出すだとか)、なんらかの評価がつきまとうことが怖かったのです。なにぶん真面目な態度で会話に滞りもない『ふつうに見える』子どもでしたので、いっそうその態度を不思議がられました。どうしてそんなに怯えているのか。人並みにできる部分と、人よりできる部分と、何度やってもどうしても身につかない部分があって、それらの偏りが激しかったので私は珍しがられました。いろんなことが人と違いました。自尊感情のバランスがそのたびにおかしくなりました。

 

体調を崩しやすい人生であるためか、体調を崩してしまった人やメンタルが参ってしまった人の書いた文章(本やブログなど)を何かと読むことがあります。そうするとよく「がんばらなくてもいい」「無理しないで」という内容が書かれていることがあります。

がんばらないってなんだろう。

私は何かをどれだけ頑張っても全く満足できず、ずっと自分は“何も頑張っていない“と思っていて、あるとき活動がキャパシティを超えてしまい、みごとにダウンしました。「がんばらなくてもいいよ」とどれだけ言われても全く理解ができなかったのです。

がんばるってなんだろう。言葉の意味を調べよう。

私にとって辞書は重要なツールです。言葉を知りたい。言葉を知って多くの人々と感覚を共有したい。

 

頑張る(がんばる)の意味・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書

[動ラ五(四)]《「が(我)には(張)る」の音変化、また「眼張る」の意からとも。「頑張る」は当て字》
1 困難にめげないで我慢してやり抜く。「一致団結して―・る」
2 自分の考え・意志をどこまでも通そうとする。我 (が) を張る。「―・って自説を譲らない」
3 ある場所を占めて動かないでいる。「入り口に警備員が―・っているので入れない」

 

なるほどなあ。私は、困難を困難だと気づくことが難しくて、めげずに耐えた、我慢したという実感もほとんどない。これまで、おそらく私の人生にはいくつも困難があって(誰にだってそれぞれある珍しいものではないありふれた困難)、それにめげないで我慢した経験がある、のでしょうが、それがわからなかったので、「頑張れ」と言われても首をかしげるしかできませんでした。

私にとって音楽は、やや大袈裟な表現にはなりますが、生きるために必要なことです。たとえ楽器がなくても歌ったりリズムを取ったりします。外で歌い出しそうになった時にはつま先で床をトントンと叩いたりガムを噛んだりして音やリズムを逃がします。生きるために演奏が必要なので、困難だと思ったこともないし、我慢したこともありません。むしろ演奏を禁じられる方が大きな困難……。それで、頑張っているという実感が全くなかったのです。

そうか、すでに頑張っていたんだ。

 

もう「わたしはがんばっていない」と思って卑屈になることはないんだな。

自分のしたことを、ありのまま、話せるようになるといいです。

 

 

すべての行動の理由をひとつひとつ考える、この思考を、「考えすぎだよ」と諌められることが多いです。

そんな人に、あなたが考えすぎなくてもなんとなく生きてこれたのはあなたが標準的だからですよ、と答えたくなります。もちろんそれはいいことなんだけど。私は「なんとなく」行動したら大失敗してしまうので(一例として交通事故に遭ったことがあります)、考えすぎにならざるを得ません。

 

考えることも大事ですが、

もっと、日頃から、わけのわからない ただ 思いました! をすらりと言えるようになりたい。それがどれだけぐにゃぐにゃでも。

言語で表現するのはまだ修行中ですが、音楽なら、わりと楽に、それが表現できます。

 

 

 

演奏は私の空白(自分では認識できていない時間)を埋めている美しい私自身です。

 

 

今後もいっさい飽きることなく楽器を弾き続けることでしょう。音楽が好きです。